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有頂天からいきなり下界に引き戻される感じ
 あるとき、電話やEメールで、時空を超えた彼方から未知の人がコンタクトしてくる。他の惑星とまではいわないが、まるで映画『E.T.』の指先が触れ合って光るように、未知のものを求めて人はクインテッセンスへ来る。私はここで人を待つ。
 遠方から訪れてくれる。それだけでも大変な決断と道程を要する。まさに有り難いとはめったにない困難なことをいうのだそうだ。はじめまして、と予期せぬ出来事は繰り広げられ、ひととき濃密な時間を過ごして人は去ってゆく。
 はじめてのエネルギーを受け止めて、まさに精を吸い取られるようだけれど、吸い取られてぽっかりとあいた洞はやがてじわじわと余韻の雨露で満たされる。
 互いに相手の世界を少しだけ旅したように、新しい感覚を体験するのだ。
diary photo
 空気を入れ替え、明かりを消して、いつもの静けさが戻ってくる。扉を閉めて鍵をかけ、外の空気に触れたとき、例えば映画館や劇場を出てすぐの、有頂天からいきなり下界に引き戻される感じが蘇ってくる。evening dew and morning dew
 あの人はまた来てくれるかしら?

6月10日
 梅雨の季節のほんのわずかな晴れ間に朝露がきらめいて、草木の色がいちだんと鮮やかに映る。ひからびそうな五月晴れのあとは、梅雨の湿りを待ちわびたのに、梅雨入りすれば、雨の恵みも通り越して滴り落ちそうである。雨はうんざりと、思わず身勝手が出そうな矢先だったから、朝日を有り難く感じる。
 曇天の薄暗がりの鈍い感覚に慣れきった身体に、新鮮なスイッチが入る。窓からの光は白い土壁と白木の床が互いの色を醸してアイボリーの世界に包まれる。光はさらに純白のベッドリネンに跳ね返って散乱し、シーツとピローとデュヴェが重なったり丸まったりする様子は、まるで雲海のようだ。
diary photo
 我が家のベッドルームはベッドを置くためにだけある。リネンはたくさん集めたけれど、引越しのときにベッドを運んでこなかったので、我が工作連盟が作ってくれた。それは2メートル四方のパインの木枠にマットレスやらリネンが乗っかっているだけのシンプルな作りだ。それを囲むように壁があるので天井はテントの天蓋みたいだ。窓の麻繊維のブラインド越しの光を感じながら眠っては目覚める。
 一日の始まりは、舞台の幕が上がってゆくときにも似て、鮮やかに蘇る草や木の気分もこんなふうなんだろうと想像する。

6月20日
 九州は6日頃に梅雨入り宣言したのに、10日過ぎたら雨の日は遠のいた。いったいどうしちゃったんだろうと、小川のほとりの紫陽花も待ちくたびれたかのようにうなだれる。この気候は油断ならない。
 朝晩は冷え込んで昼間は強烈な日差しの繰り返しだ。極端な温度差で思わぬ風邪をひくことがこの4、5年の経験でわかったので、カディのシャツを手放せない。
 ふわふわゆるゆると、木綿の性質は体の温度と湿度を皮膜のように薄い肌合いに孕んで逃さない。手紡ぎ手織りは汚れにくさも特長だけれど、さすがに2、3回着たら洗う。そしていくらなんでも毎年着続けていれば端もすり切れる。
diary photo  すり切れて傷んだ糸を掬うように手で繕って、アイロンかけてハンガーに吊るせば、清楚な感じに揺れるから、あきらめるのは早い、この夏もまだまだイケるかしらと思い直す。
 さすがに5、6年も経つとかげろうのように水にたゆたい、溶けて流れやしないかと、はらはらしつつ洗う。いよいよ今年は限界かなと思い、リタと呼ばれるソープナッツに浸して洗ってみたら、乾いたころには繊維がつやつやと蘇る。感動にうち震えつつ、そっとアイロンをあてた。まだイケる。
 思えば、ジーンズもTシャツもセーターも、経年の変化をそのようにして慈しみつつ、ずっと一緒に育ってきた。